わずか2カ月でテラバイト級の実験映像データを収集 プロジェクト推進に弾みをつける オムロン サイニックエックス株式会社
オムロン サイニックエックス株式会社は、オムロン株式会社の考える「近未来デザイン」を具現化する戦略拠点です。同社では約20名の研究者が、AI(人工知能)、ロボティクス、センシングなど最先端の技術開発に取り組んでいます。その中で実験に携わる熟練者の暗黙知をAIで伝える「BioSkillDX」プロジェクトに取り組むのが、PI(Principal Investigator)の橋本敦史氏。今回は実験そのものを目的とするのではなく、実験風景のデータ収集のためにターンキーラボ健都を使用するという、少し変わったラボの利用法の意図や成果についてうかがいました。
目次
- ライフサイエンス分野の知られざるボトルネック
- 暗黙知を『見える化」するプロセス
- 作業手順を動画撮影して解析
- 実験作業のDXを推進
- 専門外の内容があっても、ターンキーラボ健都のフォローで安心
ライフサイエンス分野の知られざるボトルネック
―現在取り組まれているJSTのプログラム「BioSkillDX」とは、どのようなプロジェクトなのでしょうか。
橋本氏:その内容をひと言で表すなら「ライフサイエンスの実験に携わる熟練者の暗黙知を、AIによって可視化し、誰でも再現可能にする」プロジェクトです。ライフサイエンス分野の研究を進めるためには、微生物や細胞などの生命体を使う実験が欠かせません。生き物を扱う実験を適切に進めるためには、高度な技能やノウハウ、コツなどが求められます。そのため同じプロセスの実験を進めようとしても、作業者が熟練者の場合とそうではない場合では、実験にかかる時間はもとより、実験の精度までが変わってきます。その最大の理由は、実験で扱う対象がモノではなく生命体だからです。対象となる生き物は、実験を行うたびに必ず毎回どこかが微妙に異なります。しかもそのサイズが微小なため極めて扱いにくい。そのような状況での作業を数多くこなした熟練者は、自らの経験に基づくノウハウやコツを蓄積しています。ただし、これはあくまでも属人的な暗黙知であり、誰かに伝えるのは極めて困難です。この暗黙知を非熟練者にも提供するための仕組み作りが「BioSkillDX」プロジェクトです。

オムロン サイニックエックス株式会社 PI 兼 東京大学 協力研究員 橋本 敦史氏 博士(情報学)
―たとえるなら、毎回必ず微妙に異なる素材を使いながら、同じ味の料理を完成させるレシピ作りのようなものですか。
橋本氏:まさに私は、料理のデータ分析を通じたレシピの最適化にも取り組んでいて、その成果を『キッチン・インフォマティクス』という書籍にまとめました。料理でも料理人の腕により、同じ食材とレシピを使っても仕上がりには大きな差が出ます。そこで私は料理を題材として、言語データであるレシピと画像データである料理をつくる映像をクロスモーダル処理、すなわち異なるメディア情報をAIによって統合的に理解・処理する手法を考案しました。この成果を応用する、つまり料理を実験に、食材を細胞などに置き換えれば、同じようにクロスモーダル処理できるのではないかと考えたのです。実現できれば実験熟練者の暗黙知を、AIを活用して初心者にわかりやすく伝えられる可能性が出てきます。
暗黙知を「見える」化するプロセス
―実験はプロトコルに従って行われるものですが、相手が生き物となるとプロトコルに書ききれないノウハウが重要になりそうです。
橋本氏:そのとおりで、そのノウハウが熟練者の技であり暗黙知のエッセンスともいえます。それを初心者に伝えるためには、まず暗黙知の可視化とデータ化が必要です。そのため「BioSkillDX」プロジェクトは2025年8月にスタートしてまずデータを収集し、その後3~4年をかけて何らかの形で成果を社会実装するプロトタイプを提供する予定です。とにかくまず必要なのがデータですから、第1段階として実験をしているところを映像データとして収集しました。
―映像データからは、どんな情報を得られるのでしょうか。
橋本氏:有意義な情報を得るためのポイントは、作業者です。すなわち同じプロトコルに則って、同じサンプルを対象とする実験を行う場合でも、熟練者と初心者では動きが微妙に異なります。その違いに熟練者の暗黙知が現れる。もちろんその際に参照するのは映像データだけではなく、プロトコルも必須です。つまり料理の場合に言語データであるレシピと作業する画像をクロスモーダル処理したように、実験におけるプロトコルと実験風景の映像データをクロスモーダル処理して暗黙知を可視化するのです。
―熟練者の暗黙知を可視化できると、初心者でも熟練者に近いレベルの作業をできるようになるのですか。
橋本氏:すぐに同じレベルで作業できるようになるかどうかは別の問題として、まず暗黙知を形式知として学べるようになります。そうなれば熟練者の作業と自分の動きの違いを理解できるようにもなるはずです。そのように学びを深める仕組みを用意できれば、実験の再現性の向上はもとより、人材育成の効率化にもつながります。
作業手順を動画撮影して解析
―映像データを収集するために活用いただいたターンキーラボ健都ですが、具体的にはどのようにデータ収集されたのですか。
橋本氏:実際に細胞培養の実験を行い、その状況を6台のビデオカメラを使って映像で収録していきました。ラボでは撮影用のクリーンベンチとアスピレーターをレンタルし、その中に撮影機材を設置して撮影しています。6台のカメラのうち5台を固定して、一つの作業を複数の視点から同時撮影します。撮影のポイントは、作業者の手の動きと実験道具類のインタラクションです。人が道具を使っているときのきめ細かな動きと視線を、できる限り死角の出ないように映像で記録していきました。残りの1台、作業者の頭部に取り付けた一人称カメラも重要な役割を担っていて、これで実際に作業する人間の目に見えている情景を記録していきました。

クリーンベンチとアスピレーターは理化学機器商社からターンキーラボ健都を通してレンタル。
機器への投資を抑えることができた。
―細胞培養のためにはクリーンベンチとアスピレーター以外の機器も必要だったと思いますが、それらはどのようにされましたか?
橋本氏:ターンキーラボ健都には細胞用顕微鏡や遠心分離機のほかにインキュベーター等も備え付けられており、それらを使わせてもらいました。また、今回のトライアルは、ターンキーラボ健都に入居しているワールドインテック社様から全面的なサポートを受けて進めました。実験に携わる習熟者と初心者の細胞培養作業者も同社の協力により、予定通り3名体制で実施することができ、実験の作業管理はもとより、機器の操作などもすべて同社にお任せしています。結局、利用期間はトータルで2カ月間に及び、この間の平日はほぼ毎日、何らかの作業を行って映像を収録できました。私自身は収録当初の1週間だけ常駐し、機器の設置や調整、初期の不具合のサポートなどを行いましたが、その後はリモートで対応しています。それでも問題なく進められたのは、ワールドインテック社様に加えて、ターンキーラボ健都のスタッフの方からも親切かつ丁寧なサポートを受けられたからです。
―ワールドインテック社は、普段ターンキーラボ健都でどのような業務を行っているのでしょうか。
西田氏:大きくいえば私たちは、ものづくりの川上から川下までを幅広くサポートする企業です。その中で私が所属しているR&D事業部では、ライフサイエンス領域での研究支援に取り組んでいます。具体的には「正社員雇用型研究者アウトソーシング」として、研究社員を育成し、企業や公的機関などに派遣して研究開発業務を支援しています。研究者というと専門性の高い職業というイメージも強いですが、最近ではキャリアチェンジサポートのため、若手の研究者育成も会社のミッションとして取り組んでいます。その育成の場としてターンキーラボ健都を活用し、細胞培養やPCR、フローサイトメトリーなどバイオ技術の実技研修を行っています。

株式会社ワールドインテック R&D事業部 R&D教育研修グループ R&D教育研修課 西田 真美氏
―今回、橋本様から受託された業務内容を教えてください。
西田氏:弊社でも研修内容のDX化には関心を持っていたので、橋本様からの依頼を受けて、すぐに協力させていただこうと決めました。とにかく映像データの収集が必要ですから、撮影を行うための作業をする作業者3名、すなわち習熟者1名と初心者2名を手配しました。具体的に行ったのは細胞の継代培養ですが、これは普段の研修で実施している実験内容ですので、作業自体は難しいものではありません。ただ今回は、作業しながらデータ収集のための動画撮影とアノテーションを実施する必要があり、習熟者はより伝わりやすい言葉を選んで説明しながら撮影を実施する必要がありました。今回のプロジェクトを通して、研究開発力の推進と、より広範囲での人財育成に弊社が少しでも貢献できたとすれば、大変価値のある事と考えています。
実験作業のDXを推進
―2カ月間の成果について教えてください。
橋本氏:1日あたりカメラ6台により、最大で1200GBの映像データを収録できました。その約2カ月分ですから、まず次のステップへ進むには十分なデータ量です。次は試作段階として、実験のプロトコルと作業動画を統合して、AIに解析・抽出させていきます。初心者との比較などにより熟練者ならではの高度な技術を、まずデータ化し可視化していく予定です。その先に見すえているのは、実験作業のGithubの構築です。
―実験作業のGithubとは、どのようなものなのでしょう。
橋本氏:Githubとは、ソースコードの共有・管理・共同開発をWeb上で行うためのプラットフォームです。実は私の専門領域である情報学でも、かつては論文発表の再現性がかなり怪しかったのです。その理由は論文の背景となるプログラムが公開されていなかったからです。けれどもGithubができてコードが公開・共有されるようになると、状況が大きく変わりました。論文が出るとそこに書かれたコードをみんなが使い、研究がどんどん進むようになったのです。同じように実験作業でも、作業中の行動映像とプロトコルが公開されて共有できるようになれば、世界は一変するのではないかと期待しています。
―ただし単なる論文とソースコードだけではなく、バラツキのある細胞なども含めて扱うのが、従来のGithubとの違いや難しさになるわけですね。
橋本氏:だからこそ、その有効性を多くの研究者たちに認識してもらいたいのです。次のステップとしては今回の成果を踏まえて技術検証を行い、さらに開発すべきテーマを抽出する予定です。それを踏まえて、ボランティアベースで動画撮影などに協力してもらえるラボを当たっていきます。撮影したデータを加工して作業者に見てもらい、役に立つと理解してもらえれば、データ収集が加速していくでしょう。そうなればライフサイエンス分野のGithub構築につながっていくと期待しています。
専門外の内容があっても、ターンキーラボ健都のフォローで安心
―この2カ月、ターンキーラボ健都を使ってみた感想をお聞かせください。
橋本氏:懸念していたのは、頭部に装着する一人称カメラです。様々な研究者が研究を行っているシェアラボとして多様な利用者がおられる中で、一人称カメラを使った撮影で映り込みや秘密保持などの懸念を含めて、他の方々が理解してくださるのかと心配していました。しかし最初にターンキーラボ健都のスタッフの方に懸念点を挙げていただき、他の利用者の方に受け入れていただけるような条件を決め、「それを守れば可能です」といってもらえたのは何よりありがたかったです。私たちの研究が公的な研究費で取り組むプロジェクトであることを事前にシェアラボ利用者に情報公開してもらい、利用開始一か月以上前から丁寧に告知をし、理解を得られたおかげだと感謝しています。
―実験のプロだけでなく初心者にも実験を試してもらう取り組みに心配などはなかったのでしょうか。
橋本氏:その点はワールドインテック社様にお任せできていたので、安心していました。また実験を始める前にインストラクションを受けて、ダメなものはダメだとはっきりいってもらえたのも安心材料に繋がっています。さらにターンキーラボ健都スタッフの方にも初期の問い合わせ時にワールドインテック社をご紹介いただいた上に、利用開始前から実験がスムーズに進むようプロジェクトの告知やレンタル機器の手配などサポートしていただけました。だから私自身は当初だけ立ち会い、それ以降はずっとリモートで対応できたのです。ライフサイエンスの専門家でもない私に対しても、きめ細かく対応していただき感謝しています。

「ターンキーラボ健都を使うことにより、スピーディーに実証のための初期データを収集することができた。
これらのデータを元に、ライフサイエンス分野における技能継承を加速させるための研究を進めていきたい」
橋本氏
オムロン サイニックエックス株式会社
創業者立石一真の時代からオムロングループに受け継がれた技術経営スタイル、SINICによる近未来デザインからのバックキャスティング。オムロン サイニックエックス(OSX)は、この最先端を担い、近未来の社会から必要とされる革新的技術を手繰り寄せ、社会実装を実現するための具体的なアーキテクチャを創出するミッションを背負い、2018年、東京本郷の地で立ち上がりました。OSXでは、世の中の変化の兆しとそこから生まれる社会的課題をいち早く捉え、解決のボトルネックとなる技術的課題との重なりから、本質的な研究上の問い、魅力的な研究課題を作り出すことを目指しています。
ウェブサイトはこちら → https://www.omron.com/sinicx/
JST 経済安全保障重要技術育成プログラム
ノウハウの効果的な伝承につながる人作業伝達等の研究デジタル基盤技術
研究課題名「BioSkillDX: ライフサイエンス実験作業の暗黙知獲得と作業支援」
課題番号: JPMJKP25V1 https://projectdb.jst.go.jp/grant/JST-PROJECT-25036408/
株式会社ワールドインテック
ワールドインテックR&D事業部は、ライフサイエンス(化学・バイオ・分析・臨床開発)を中心に「正社員雇用型研究者アウトソーシング」を提供する事業部で、企業や公的機関のコアな研究開発業務を支援しています。R&D事業部以外にもFC、ITS、テクノ事業部が存在し、ものづくりに携わる全てのお客様の支援をさせていただいております。人的支援からプロジェクト支援まで、さまざまな形の研究支援を通して、お客様の課題解決をお手伝いいたします。
ウェブサイトはこちら→ https://www.witc.co.jp/
ターンキーラボ健都
京都リサーチパーク株式会社は国内最大級のシェアラボ「ターンキーラボ健都」を2022 年北大阪健康医療都市(通称:健都)で開業いたしました。当施設は、"そのひらめき、すぐ研究。"をコンセプトとした、P2/BSL2対応のシェアラボです。細胞培養や遺伝子解析ができる必要最小限の設備と機器が揃っているため、初期投資をおさえ、すぐに研究を始めることができます。実験ベンチや機器は時間単位のレンタルで、利用頻度に合わせてお得に使うことができます。さらに常駐のラボマネージャーが施設管理等に対応することで、研究に専念できる環境を提供いたします。また、交流を目的に作られたサロンも併設しており、交流会、勉強会等のイベントも開催を予定しています。
ウェブサイトはこちら → https://www.krp.co.jp/turnkeylab/lp/