だが、事業は必ずしも順風満帆とはいかなかった。
平成7年(1995年)早春。KRPは最大の経営危機に直面する。前年春に完成した4号館のテナントがなかなか決まらないまま年を越してしまったのだ。不況が長引いていたことに加えて阪神大震災や地下鉄サリン事件が起こり、社会不安が広がった。
入居を期待していた大口テナントとの契約が次々と反故になった。
そんなある日、社長の遠藤のところに企画開発部の2人の若手スタッフが1人の起業家を伴ってやってきた。若手スタッフは水野成容と元神久美子。起業家はエニアック・インターナショナル(京都市)の松川恵一。
デザイナー出身でCG(コンピューター・グラフィック)表現の草分けでもある松川が、マルチメディアビジネスにおける人材育成の重要さをとうとうと説く。
最初はデザイナーらしい奇抜な風貌の松川を胡散臭そうに眺めていた遠藤だったが、聞いているうちに「ここは若手の熱意に賭けるしかない」という考えになってきた。
水野、元神のプランは、フロアをできる限り小さく分割し、個人事業に近いような新興のマルチメディアベンチャーを数多く誘致するというものだった。そのために、まずキーマンを入居させ、芋づる式にたぐり寄せていく。従来の不動産業の発想にはない方式だ。
マルチメディアやITの世界は人材の力が剥き出しになる。人に着目した企業誘致こそが、可能性を引き寄せるはずだ。
マイクロソフトがネット接続機能を搭載したWindows95を発売するなど、折しもネット元年。
「やってみいや」。遠藤は2人の若手にこう告げた。
まずエニアックの松川、CG開発の先端を走っていたアンフィニ・エンタテイメント・テクノロジ(東京)の中村一、内田洋行(東京)の武幸太郎らを中心とするユニット「デジタルメディア京都」(DMK)をコアテナントとし、デジタルクリエーター向けのカンファレンスや塾を断続的に開いた。一方で水野らは、業歴や財務内容などは完全に不問にして、若い起業家たちにどんどん声をかけていった。
それを契機に、テナント数が爆発的に増えはじめた。テナント自身が親しい取引先を自ら誘致しはじめたのだ。 全財産はパソコン1台というような若い起業家が“居候”の形で居着いた場合も、追い出されることはなかった。むしろKRPのスタッフはこまめに声をかけ、新しいテナントに育てていった。
こうして平成8年(1996年)末には4号館もほぼ埋まり、翌年にはエリア全体で入居率98%に達するに至る。
「若い人のアイデアを年寄りが押さえたらあかん。そのことを教えてもらった」。引退後悠々自適の生活を送る遠藤は今、しみじみと語る。
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